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「 いのち 」 は 妙です。
「 いのち 」 は不可思議です。
そして 「 いのち 」 はダイナミックです。


「 いのち 」 は永遠に存在しています。
今のあなたは、変化をしながら永遠に続く 「 いのち 」 の、現時点での 「 相 」 といえます。


しかし多くの人は、まだそのことを理解していません。
期間限定( 誕生から死までの限られた期間 )で 「 いのち 」 を捉え、
「 いのち 」 の外面の部分に焦点を当てて物事を捉えています。

「 いのち 」 の内面にこそ、人生の幸 ・ 不幸を決める根本的な要因があります。
四苦八苦という言葉があるように、すべての人の 「 いのち 」 には、八つの苦しみが最初から具わっています。
その八つの苦しみの克服には、「 いのち 」 全体の理解が必要なのです。

「 いのち 」 は、はるか遠い過去から誕生し、未来永劫へと続いています。
釈尊は 「 いのちの本当の姿 」 を悟り、法華経の中で永遠の 「 いのち 」 を説きました。
そして苦しみを克服する方法を明かしています。

多くの方が宗教には無関心ですが、宗教は 「 いのち 」 をテーマにした、「 いのち 」 の捉え方そのものです。
今のあなたの 「 いのち 」 の捉え方が、あなたの宗教ともいえるのです。
そして今のあなたの 「 いのち 」 の捉え方が、あなたの人生を決定しています。

今のあなたが苦しみの真っ只中にいるのであれば、このブログを最後まで読んで見てください。
真剣に学び実践する中で、多くの希望を生み出す智恵が涌いてくることでしょう。

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5年前、当時20歳になる甥っ子が自ら命を絶ちました。
甥っ子が小学生の頃、一時、一緒に暮らしていましたので、自分の子供を失ったような気持ちです。

甥っ子は転校して間がなかったためか友達もおらず、学校から帰っても一人寂しく過ごしていました。
そんな甥っ子は仕事から帰宅する私を待ちかねたように、「 叔父ちゃん、何して遊ぶ? 」 と聞いてきたのです。
当時、私はまだ独身で仕事の成績も振るわず、疲れ果てて自宅に戻る日々を過ごしていました。
私は甥っ子の気持ちを理解できずに、「 今日は疲れとうけん、遊ばれんたい !」 と返事をしていたのです。

その後、甥っ子は母親の再婚により、遠く離れた地で暮らすことになります。
甥っ子は夏休みを利用した里帰りで、家族揃って遊びにきたりしていましたが、中学生になってからは、もうほとんど交流がなくなっていました。
甥っ子の気持ちが少し荒れてきているとの知らせは受けていました。
私は多少は心配するものの、いずれ年月が解決するだろうと思っていたのです。

そして5年前、親族から 「 ○○が自殺した 」 との電話連絡を受けました。
私は絶句して、しばらく言葉が出ませんでした。
「 本当ですか?」 と聞き返すのがやっとだったのです。
葬儀で甥っ子を見たときは、体つきはもう立派な大人に成長していました。

「 なぜ、こんなことに?」

この疑問と同時に、私が甥っ子の気持ちを理解できずに一緒に遊んであげれなかったことを、非常に後悔しました。
私が返事をしたあとの、甥っ子の悲しそうな顔が何度も思い出されます。

甥っ子は、この世における存在価値を、もう自分では上げることができません。
私は甥っ子の生きた証を高めたいと思い、3年前から、ボランティアで自殺予防の電話相談員をしています。

また、私は仏教を信仰していますので、甥っ子の自死を契機として、仏教が 「 いのち 」 をどのように捉えているのかを真剣に学び始め、理解した内容を一冊の本として世に出しました。

「 愛するものを失った苦しみ 」

これは仏教が説く 「 四苦八苦 」 の中の一つです。
釈尊はすべての人々が持つ 「 八苦 」 を根本的に克服するために出家をし、「 いのちの本当の姿 」 を悟るのです。

釈尊は、「 この世こそ、人々が幸福を求めて生きる場所であり、生きることをまっとうすべき場所である 」 と説いています。
そして、苦しみを克服する方法を明らかにしています。


自死遺族は 「 愛するものを失った苦しみ 」 以外にも、世間からの偏見や、法整備の遅れから来るさまざまな苦しみを受けています。

しかし、その苦しみも、自分自身の 「 いのちの本当の姿 」 を知ることで克服することができます。
なぜなら、多くの希望を生み出す 「 智恵 」 が涌いてくるからです。


私は28年前に父をガンで失い、今回は甥っ子を失いましたが、信仰の実践を通して、「 愛するものを失った苦しみ 」 を克服することができました。
また、これからの人生で起こるであろうさまざまな苦しみに対しても、克服できるだけの心構えを持つことができました。

今回、ブログを立ち上げ、出版した本の全章を立ち読みできるようにしています。
自死遺族関係者を含め、悩み苦しんでおられる多くの方々に読んで頂ければ幸いです。

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人は希望がなければ力がでません。
希望がなければ生きてもいけません。

このブログは、悩み苦しんでいる方々に、悩みを解決し、苦しみを克服して頂くために開設しました。
このブログは、「 いのちの本当の姿 」 を明らかにしています。
なぜなら、「 いのち 」 を正しく理解することで、多くの希望を生み出していけるからです。
悩みや苦しみは、自分の 「 いのちの本当の姿 」 を知らないことで発生するからです。

多くの方々が無関心である宗教ですが、実は仏教の中の法華経に、「 いのちの本当の姿 」 が明かされていました。
今も苦しみの真っ只中におられる方は、「 いのちの本当の姿 」 を学ばれることをお勧めします。
真剣に学び実践する中で、嘘のように苦しみが消えていくのがわかるでしょう。


このブログを読まれた方々が、法華経を学ぶことで 「 いのちの本当の姿 」 を理解され、今を精一杯生き抜いていただくことが私の願いです。

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二十一世紀は厳しい時代です。
社会環境の悪化などで、生き抜くことが難しくなってきています。
日本では十年ほど前から、毎年、三万人を超える方が自殺をしています。
今も苦しみの真っ只中におられる方は、非常に多いのではないでしょうか。
このような時代だからこそ、この本を書きました。
たくましく生き抜くための、希望を生み出す智恵が必要だと思うからです。
希望を生み出す智恵によって、今まで見えていなかった多くの希望が見えてきます。
その見えてきた多くの希望によって、潜在能力が発揮されます。
その発揮される潜在能力によって、厳しい時代の中ででも、たくましく生き抜くことができるようになるからです。

人は希望がなければ力が出ませんし、生きてもいけません。
この本は、「 いのちの本当の姿 」 を明らかにしています。
この本を読み終わる頃には、あなたは想像すらしなかった自分の 「 いのち 」 の現実を知ることになるでしょう。
さらにこの本は、希望を生み出す智恵を湧き出させる方法も明らかにしています。
本来、あなたの 「 いのち 」 には、無限とも思える潜在能力が秘められています。
しかし、そのことを頭では分かっていたとしても、現実にそれを発揮するのは容易なことではありません。
希望を生み出す智恵を湧き出させる方法を知ることにより、あなたは容易に、無限とも思える潜在能力を発揮することができるようになるのです。

まず最初にあなたに考えてもらいたいのは、「 いのち 」 についてです。
私たちは環境との関わりの中で、苦しみや楽しみを感じています。
苦しみや楽しみを感じているのは 「 いのち 」 です。
その 「 いのち 」 をどのように考えるのか。
その考え方次第で、環境に対する感じ方がまったく変わってきます。
「 いのち 」 を正しく理解することで、多くの希望を生み出していけるのです。
「 いのち 」 が感じる苦しみについて、少し考えてみましょう。
「 四苦八苦 」 という言葉があります。

「 生苦 」     = 生まれてくることの苦しみ。
「 老苦 」    = 老いていくことの苦しみ。
「 病苦 」    = 病気になることの苦しみ。
「 死苦 」    = 死ぬことの苦しみ。
「 愛別離苦 」 = 愛するものと別れなければならない苦しみ。
「 怨憎会苦 」 = 怨み憎しむものと出会わなければならない苦しみ。
「 求不得苦 」 = 求めても得ることができない苦しみ
「 五盛陰苦 」 = 心身を形成する五陰の不調和による苦しみ。

前の 「 四苦 」 に後の 「 四苦 」 を加えて、「 四苦八苦 」 を表します。
この八苦は、私たちの 「 いのち 」 に最初から具わる苦しみです。
あなたの人生の中で、何度も訪れる苦しみです。
世界中のすべての人が、この八苦の苦しみを共通して持っています。
「 氷山の一角 」 という言葉があります。
海に浮かぶ氷山は、全体の 30 % しか海面に出ていません。
あとの 70 % は海面の下です。
私たちは 「 いのち 」 のことを、表面に現れた一部分しか理解できていません。
意識できる部分だけであり、あとの大部分を占める無意識の部分、つまり、意識で感じることができない部分は理解できていません。
「 いのち 」 のことをすべて理解できていないので、「 いのち 」 に具わる八苦の苦しみを克服することができないのです。

この八苦の苦しみを根本的に克服するために、出家をしたのが釈尊です。
二千四百年前、出家した釈尊は長い修行の末に悟りを得ます。
釈尊が悟ったもの、それは 「 いのちの本当の姿 」 です。
「 いのちの仕組み ・ 働き 」 です。
「 いのちの法則 」 を発見したといってもよいでしょう。
釈尊は 「 いのち 」 のことを 100 % 悟ったことで、八苦の苦しみを克服します。
そして、自分が獲得した最高の智恵と幸せな境涯を、他の人々にも獲得させようと、すべての人を仏にする、という誓いを立てます。
仏とは、「 いのち 」 のことを 100 % 悟った人をいいます。
釈尊は 「 いのちの本当の姿 」 を伝えるために、教えを説いていきました。
しかし、釈尊滅後の長い布教の歴史の中で、人間の執着心が誤解を生じさせます。
釈尊の教えが、誤った解釈で伝わってしまったのです。
現在多くの人は身内の死後、葬儀や法事などで形式化した仏教と接するのみです。
たとえ僧侶の修行に接しても、現実離れの、別世界の印象を強く受けます。
現実の生活を営む多くの人は、生き抜くために本当に必要な希望を生み出す智恵を、そこからは決して学べていないのです。
これは、「 いのちの本当の姿 」 が正確に伝わってこなかったのが原因です。
「 いのちの本当の姿 」 からは、多くの希望を生み出す智恵が学べます。
今も苦しみの真っ只中におられる方は、「 いのちの本当の姿 」 を学ばれることをお勧めします。
真剣に学び実践する中で、嘘のように苦しみが消えていくのが分かるでしょう。

釈尊は入滅の直前に説いた涅槃経に、次の教えを残しています。

【 涅槃経の如来性品 第四 に 】

○ 依法不依人 依義不依語 依智不依識 依了義経不依不了義経

○ 法に依りて人に依らず 義に依りて語に依らず
○ 智に依りて識に依らず 了義経に依りて不了義経に依らず


仏の説いた法をよりどころとし、教えを伝える人をよりどころとしてはいけない。
仏の義をよりどころとし、教えを伝える言葉をよりどころとしてはいけない。
仏の智恵をよりどころとし、教えを伝える知識をよりどころとしてはいけない。
仏の了義経をよりどころとし、不了義経をよりどころとしてはいけない。


「 法 」      = 仏が悟った 「 いのちの法則 」
「 人 」      = 法師 ・ 論師など仏の教えを伝え広める人。
「 義 」      = 真実、道理
「 了義経 」   = 真実の教えを説いた経典。
「 不了義経 」 = 真実の教えを説いていない方便の経典。
「 方便 」    = 真実の教えに誘い入れるために仮に設けた教えのこと。

長い布教の歴史の中で、真実の教えと方便の教えが混在して広まりました。
その間、多くの人が八苦の苦しみを克服するために、仏の教えを学んできました。
しかし、学んできた教えが方便の教えであれば、八苦の苦しみは克服されません。
八苦の苦しみを克服する仏の真実の教えは、法華経の中で初めて説かれるのです。
真実の教えと方便の教えは、まったく性質が異なります。
方便の教えに執着してしまった人々が、不可思議な 「 いのちの本当の姿 」 を受け入れられずに、誤った解釈を伝えてしまったのです。
仏の真実の教えを伝えていくのは人です。
ゆえに人は尊いのですが、誤って伝えてしまうのも人です。
それが分かっていたからこそ、釈尊は涅槃経で遺言とも思える教えを残したのです。

この本では、法華経の中での釈尊の説法を抜粋して紹介しています。
漢語に翻訳された言葉、読み下し文、現代語訳、解説を記載しています。
仏の教えに関して誤った解釈が主流となっている現在、仏の真実の教えを知るには、了義経から直接学ぶ以外にありません。
漢字はその一語一語に意味を持っています。
昔から漢字に慣れ親しんでいる私たちにとって、了義経から直接 「 いのちの本当の姿 」 を学ぶことは、難しいことではありません。
漢語に翻訳された言葉、読み下し文は、文章を緑色にして、行の頭に○を付けています。
最初は、○の付いていない現代語訳と解説を最後まで読まれることをお勧めします。
法華経で初めて明かされる釈尊の真意を理解されたのちに、漢語と読み下し文を読まれると、仏の真実の教えが理解しやすくなります。
第一章では、釈尊がこの世に出現した目的は、「 いのちの本当の姿 」 を伝える法華経を説き、人々に八苦の苦しみを克服させて、仏に成るための道を歩ませるためであったこと。
その準備段階として、方便の教えがあったこと。
これらを釈尊の説法を紹介しながら証明しています。
第二章では、末法と呼ばれる現在において、私たちが学び実践すべき法華経を、仏の説法を紹介しながら明らかにしています。

私はごく普通の平凡な会社員ですが、
ある時期に大きな問題を抱えて悩み苦しんだことで、生きる意味を真剣に考えるようになりました。
縁あって法華経を学び、その実践を通して、「 いのちの本当の姿 」 の一部分を全身で感じた時に、環境に対する感じ方がまったく変わってきたのです。
苦しみが消えていき、自分の環境のすべてを肯定できるようになりました。
すべての出来事には意味があることを理解できたからです。
不安定だった心が安定し、残りの人生の 「 いのちの使い道 」 が見えてきました。
それは 「 いのちの本当の姿 」 を伝え広めることです。
その使命を自覚するために、今までの人生があったのだと思えますし、その使命を果たすために、これからの人生があるのだと思えます。
何のために生まれてきたのかが理解でき、使命に生きる人生。
これほどの幸せな人生が他にあるでしょうか。
生まれてきてよかったと、両親に感謝します。

法華経によって使命を自覚し、行動を起こしている人は世界中に大勢います。
世界の 192 の国や地域の人々が、それぞれの人生で、苦しみを使命に変える仏の智恵を伝え広めています。
人は使命に生きる時、無限とも思える潜在能力を発揮できるからです。
この本の出版は、私の使命実現の最初の一歩です。
私なりに一番理解しやすいと思われる方法で、法華経を表現してみました。
初めての出版でもあり、いくつかの誤りが含まれているかもしれませんが、仏の真実の教えは充分に表現されていると信じます。
この本を手にしていただいた読者の方々が、法華経を学ぶことで 「 いのちの本当の姿 」 を理解され、今を精一杯生き抜いていただくことが私の願いです。

                                          平成22年11月18日  井手 誓願

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すべての人の 「 いのち 」 に具わる八苦の苦しみ。
その八苦の苦しみを、「 いのちの本当の姿 」 を悟ることで克服した釈尊。
釈尊は法華経の会座で、仏に成った直後のことを回想して、その時に立てた誓願を舎利弗に説きます。

【 法華経の方便品 第二 に 】

○ 舎利弗当知 我本立誓願 欲令一切衆 如我等無異

○ 舎利弗よ当に知るべし 我れは本と誓願を立てて
○ 一切の衆をして 我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき


舎利弗よ、まさに知らねばならない。
私は本と、誓願を立てて、
すべての人を私のように同等に、異なることがないようにさせようとした。


大勢の菩薩、辟支仏、声聞などが法華経の会座に集まり、釈尊の説法を聴いています。
舎利弗は釈尊の十大弟子の一人で、智恵第一といわれています。
法華経において、対告衆の一人になっています。

「 菩薩 」  = 最高の悟り ( 仏の智恵 ) を求めて、自ら仏になるためだけでなく、他の人をも救済する志を立てて修行する人のこと。
「 辟支仏 」  = 仏の教えによらず、自らの力で理を悟る人のこと。
「 声聞 」   = 自己の悟りのみ求め、仏の教えを聞いて修行する人のこと。
「 対告衆 」  = 人々の代表として仏の説法を聞く立場の人。

仏に成った釈尊は、すべての人を仏にする、という誓願を立てました。
しかし、その誓願を立てる前は、教えを説くことを悩んでいたのです。

○ 舎利弗当知 我以仏眼観 見六道衆生 貧窮無福恵 入生死険道 相続苦不断
○ 深著於五欲 如犛牛愛尾

○ 舎利弗よ当に知るべし 我れは仏眼を以て観じて 六道の衆生を見るに
○ 貧窮にして福恵無し 生死の険道に入って 相続して苦断えず
○ 深く五欲に著すること 犛牛の尾を愛するが如し


舎利弗よ、まさに知らねばならない。
私は仏の眼をもって観察して、六道を輪廻する人々を見てみると、貧乏で困窮していて幸福な智恵がない。
生死の険しい道に入って、それが続いて苦しみが断えることがない。
深く五欲に執着している様子は、ヤクが自分の尻尾を愛するようである。


「 六道 」 =  「 いのち 」 が感じる世界を十種類に分類した 「 十界 」 の中で、六つの世界をまとめたもの。
地獄界 ・ 餓鬼界 ・ 畜生界 ・ 修羅界 ・ 人界 ・ 天界があり、仏道修行で獲得される声聞 ・ 縁覚 ( 辟支仏 )界 ・ 菩薩界 ・ 仏界をまとめた 「 四聖 」 と合わせて 「 十界 」 となる。
私たちの一日の生活は、この六種類の 「 いのち 」の状態を、縁に触れて瞬間瞬間繰り返しており、これを六道輪廻という。
「 五欲 」 = 色欲 ・ 声欲 ・ 香欲 ・ 味欲 ・ 触欲で、五官が起こす欲望のこと。

○ 我始坐道場 観樹亦経行 於三七日中 思惟如是事
○ 我所得智慧 微妙最第一 衆生諸根鈍 著楽癡所盲 如斯之等類 云何而可度

○ 我れは始め道場に坐し 樹を観じ亦た経行して 三七日の中に於いて
○ 是の如き事を思惟しき
○ 我が得る所の智慧は 微妙にして最も第一なり
○ 衆生の諸根は鈍にして 楽に著し癡に盲いられたり
○ 斯の如きの等類 云何にしてか度す可きと


私は初め道場に坐って、樹木を観察し、また散策して、三七日のあいだ、このようなことを考えた。
「 私が獲得した智恵は、微妙であり最も第一である。人々の多くの根は鈍く、快楽に執着して、おろかであり盲目になっている。このような種類の人々を、どのようにして度すべきだろうか 」 と。


「 微妙 」 = 細かいところに複雑な意味が含まれていて、言い表しようがないこと。
「 根 」   = 感覚と意識をつかさどる眼 ・ 耳 ・ 鼻 ・ 舌 ・ 身 ・ 意の六つの根のこと。
「 度 」   = 度は、渡すの意味がある。苦しみの世界から悟りの世界に渡すこと。

○ 我即自思惟 若但讃仏乗 衆生没在苦 不能信是法 破法不信故 墜於三悪道
○ 我寧不説法 疾入於涅槃

○ 我れは即ち自ら思惟すらく 若し但だ仏乗を讃めば 衆生は苦に没し
○ 是の法を信ずること能わじ 法を破して信ぜざるが故に 三悪道に墜ちなん
○ 我れは寧ろ法を説かず 疾く涅槃にや入りなん


私はそこで自ら考えた。
「 もしもただ仏乗を讃めれば、それを知らない人々は苦しみに埋没して、この法を信じることができなくなる。
法を破って信じないがゆえに、三悪道に墜ちるだろう。
私はむしろ法を説かないで、すみやかに涅槃に入ろうか 」 と。


「 仏乗 」   = 仏に成るための教え。此岸 ( 苦しみの世界 ) から彼岸 ( 悟りの世界 ) に向かう乗り物に譬えていて、彼岸に渡ることができる教えのこと。
「 三悪道 」 = 地獄界 ・ 餓鬼界 ・ 畜生界をまとめたもの。
「 涅槃 」  = 生死の境を出離すること。一切の煩悩や苦しみを永遠に断じた境地。

○ 尋念過去仏 所行方便力 我今所得道 亦応説三乗
○ 作是思惟時 十方仏皆現 梵音慰喩我
○ 少智楽小法 不自信作仏 是故以方便 分別説諸果 雖復説三乗 但為教菩薩

○ 尋いで過去の仏の 行ぜし所の方便力を念うに 我が今得る所の道にても
○ 亦た応に三乗を説くべし
○ 是の思惟を作す時 十方の仏は皆な現じて 梵音もて我れを慰喩したまう
○ 少智は小法を楽って 自ら作仏せんことを信ぜず 是の故に方便を以て
○ 分別して諸果を説く
○ 復た三乗を説くと雖も 但だ菩薩を教えんが為なりと


続いて、過去の仏が行った方便の力を思うと、私が今獲得した仏の道においても、またまさに三乗を説くべきである。
この考えを持った時、十方の仏が皆な現れて、美しい声で私を慰めて言った。( 中略 )
「 智恵の少ない者は小乗の法を喜んで、自分自身が仏に成るということを信じない。
このために方便をもって、区別して、多くの果報を説くのである。
また三乗を説くといっても、ただ菩薩を仏へと教え導くためである 」 と。


「 三乗 」 = 六道の苦しみの世界を輪廻している人々を、仏道修行によって声聞の世界に入らせて、さらに声聞の世界から辟支仏の世界に、辟支仏の世界から菩薩の世界へと入らせるための三つの教え。
「 十方 」 = 東 ・ 西 ・ 南 ・ 北 ・ 東北 ・ 東南 ・ 西北 ・ 西南 ・ 上 ・ 下の十方向。
「 小乗 」 = わずかの人しか救うことができない教えのこと。

○ 舎利弗当知 我聞聖師子 深浄微妙音 喜称南無仏
○ 復作如是念 我出濁悪世 如諸仏所説 我亦随順行

○ 舎利弗よ当に知るべし 我れは聖師子の 深浄微妙の音を聞いて
○ 喜んで南無仏と称す
○ 復た是の如き念を作す 我れは濁悪世に出でたり
○ 諸仏の説きたまう所の如く 我れも亦た随順して行ぜんと


舎利弗よ、まさに知らねばならない。
私は聖なる師子の深く浄らかで微妙な声を聞いて、喜んで南無仏と口に出して唱えた。
またこのような思いを持った。
「 私は濁った悪い世の中に生まれ出た。
多くの仏が説いてきたように、私もまた、それに逆らわずに従い実行しよう 」 と。


「 南無仏 」 = 南無は、梵語 「 ナマス 」 の音写で帰命と漢訳する。
仏 ( いのちの法則 ) に、自分の 「 いのち 」 を合わせて、一致させること。

これらの文から理解できること。
釈尊は、すべての人を仏にする、という誓願を立てていた。
しかし、人々は五欲に執着し、六道の世界を輪廻していて、自らの力では、その苦しみの世界から抜け出ることができないでいた。
また、自分自身が仏に成れることなど信じてもいなかった。
そのような人々を仏にするための手段として、釈尊は、人々が仏乗を信じられるようになるまではそれを説かずに、方便をもって三乗を説くことを決意していた。

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