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方便の教えは実に四十二年間にわたり、人々の理解に合わせて説かれました。
四十二年の歳月を経て、ようやく人々が仏乗を信じられるようになってきます。
釈尊は大荘厳菩薩の質問に答える形で、その仏乗の存在を無量義経で明かします。

【 無量義経の説法品 第二 に 】

○ 世尊 菩薩摩訶薩欲得疾成阿耨多羅三藐三菩提 応当修行何等法門

○ 世尊よ 菩薩摩訶薩は疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得んと欲せば
○ 応当に何等の法門を修行すべき


世尊よ。菩薩摩訶薩がすみやかに阿耨多羅三藐三菩提を獲得したければ、まさにどのような法を修行すべきですか。

「 世尊 」 「 摩訶薩 」    = 「 世尊 」 は仏の尊称。 「 摩訶薩 」 は菩薩の尊称。
「 阿耨多羅三藐三菩提 」 = 最高の悟り ( 仏の智恵 )。

○ 善男子 有一法門 能令菩薩疾得成阿耨多羅三藐三菩提

○ 善男子よ
○ 一の法門有りて 能く菩薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得しむ


善男子よ。
一つの法があって、菩薩にすみやかに阿耨多羅三藐三菩提を獲得させることができる。


「 善男子 」 = 仏の法を信じる在家の男性。 または、仏の法を信じる在家の人。

○ 世尊 是法門者 号字何等 其義云何 菩薩云何修行

○ 世尊よ 是の法門とは 号を何等と字づくる
○ 其の義は云何ん 菩薩は云何んが修行せん


世尊よ。この法は、名前を何と言いますか。
その義はどのようなものですか。
菩薩はどのように修行をしたらよいですか。


○ 善男子 是一法門 名為無量義
○ 菩薩欲得修学無量義者 応当観察一切諸法 無有二法
○ 而諸衆生虚妄横計 是此是彼 是得是失 起不善念 造衆悪業 輪廻六趣 受諸苦毒
○ 無量億劫不能自出

○ 善男子よ 是の一の法門を 名づけて無量義と為す
○ 菩薩は無量義を修学することを得んと欲せば
○ 応当に一切諸法は 二法有ること無しと観察すべし
○ 而るに諸の衆生は虚妄に 是れは此れ 是れは彼 是れは得 是れは失と横計して
○ 不善の念を起こし  衆の悪業を造って 六趣に輪廻し 諸の苦毒を受けて
○ 無量億劫自ら出ずること能わず


善男子よ。この一つの法を、名づけて無量義とする。
菩薩は無量義を修学したければ、
まさに一切の諸法は、( 中略 ) 二つの法があるのではないと観察しなさい。
それなのに多くの人は虚妄に、これはこれ これはあれ、これは得、これは損と誤って考え、善くない思いを起こし、多くの悪い業を作って、六道の世界を輪廻し、多くの苦しみと毒を受けて、量り知れない億劫を、自分から出ることができないでいる。


「 諸法 」 = あらゆる存在 ・ 現象のこと。 森羅万象。
「 業 」   = 身 ・ 口 ・ 意にわたる自らのすべての行為。 自らの 「 いのち 」 の深層に刻み込まれて、苦しみや楽しみの果報をもたらす原因として蓄積される。
「 劫 」   = 極めて長い時間 ( 期間 ) の単位。

さらに修行の方法を答えた後で、

○ 無量義者 従一法生
○ 菩薩摩訶薩若欲疾成無上菩提 応当修学如是甚深無上大乗無量義経

○ 無量義とは 一法従り生ず
○ 菩薩摩訶薩は 若し疾く無上菩提を成ぜんと欲せば
○ 応当に是の如き甚深無上大乗無量義経を修行すべし


無量義とは、一つの法より生じる。 ( 中略 )
菩薩摩訶薩は、もしもすみやかに無上菩提を成しとげたければ、まさにこのような甚だ深く最高の、大乗の無量義経を修行しなさい。


「 無上菩提 」 = 最高の悟りの境地。
「 大乗 」    = 多くの人を救うことができる教えのこと。 小乗に執着し、自己の悟りのみ求める声聞 ・ 辟支仏に対して、他者に対する慈悲 ( 菩薩の修行 ) を説いた教えのこと。

ここで大荘厳菩薩は疑問を感じます。

○ 世尊 世尊説法不可思議
○ 我等於仏所説諸法 無復疑難 而諸衆生生迷惑心 故重諮世尊
○ 往日所説諸法之義 与今所説有何等異 而言甚深無上大乗無量義経 菩薩修行
○ 必得疾成無上菩提 是事云何

○ 世尊よ 世尊の説法は不可思議なり
○ 我れ等は 仏の説きたまう所の諸法に於いて 復疑難無けれども
○ 諸の衆生は迷惑の心を生ぜんが故に 重ねて世尊に諮いたてまつる
○ 往日説きたまう所の諸法の義と 今説きたまう所と 何等の異なること有りて
○ 甚深無上大乗無量義経をば 菩薩は修行せば
○ 必ず疾く無上菩提を成ずることを得んと言うや 是の事は云何ん


世尊よ。 世尊の説法は不可思議です。 ( 中略 )
私たちは仏が説かれる諸法において、また疑いはありませんが、多くの人は迷い戸惑う心を生じているために、重ねて世尊に質問します。 ( 中略 )
昔説かれた諸法の義と、今説かれていることと、どのような異なることがあって、甚だ深く最高の大乗の無量義経を菩薩が修行すれば、必ず、すみやかに無上菩提を成しとげられると言うのですか。
このことはどうしてですか。


○ 善哉善哉 大善男子 能問如来如是甚深無上大乗微妙之義
○ 善男子 我先道場菩提樹下 端坐六年 得成阿耨多羅三藐三菩提
○ 以仏眼観一切諸法 不可宣説 所以者何 知諸衆生性欲不同
○ 性欲不同 種種説法 種種説法 以方便力
○ 四十余年 未顕真実 是故衆生得道差別 不得疾成無上菩提

○ 善き哉 善き哉 大善男子よ 能く如来に是の如き甚深無上大乗微妙の義を問えり
○ 善男子よ 我れは先に道場菩提樹の下に端坐すること六年にして
○ 阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり
○ 仏眼を以て一切の諸法を観ずるに 宣説す可からず
○ 所以は何ん 諸の衆生の性欲は 不同なることを知れり
○ 性欲は不同なれば 種種に法を説きき 種種に法を説くことは 方便力を以てす
○ 四十余年には 未だ真実を顕さず
○ 是の故に衆生は得道差別して 疾く無上菩提を成ずることを得ず


よいことである、よいことである、大善男子よ。
よく如来にこのような甚だ深く最高の、大乗の微妙の義を問うことができた。 ( 中略 )
善男子よ、私は過去、道場の菩提樹の下に正坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成しとげることができた。
仏の眼をもって一切の諸法を観察すると、真実を広く説くべきではない。
なぜならば、多くの人の性質と欲望は、同じではないと知ったからである。
性質と欲望が同じでなければ、一人ひとりに合わせて法を説く。
一人ひとりに合わせて法を説くことは、方便の力をもって行う。
四十余年のあいだには、いまだ真実を顕していない。
このゆえに、人々の得る道には差別が生じてしまい、すみやかに無上菩提を成しとげることができないのである。


○ 善男子 法譬如水能洗垢穢
○ 若井 若池 若江 若河 ・ 渓 ・ 渠 ・ 大海 皆悉能洗諸有垢穢
○ 其法水者 亦復如是能洗衆生諸煩悩垢

○ 善男子よ 法は譬えば水の能く垢穢を洗うに
○ 若しは井 若しは池 若しは江 若しは河 ・ 渓 ・ 渠 ・ 大海
○ 皆悉な能く諸有る垢穢を洗うが如く
○ 其の法水も亦復た是の如く 能く衆生の諸の煩悩の垢を洗う


善男子よ。法は譬えれば、水でよく汚れを洗う時に、もしくは井戸で、もしくは池で、もしくしは入江で、もしくは大きな川 ・ 谷川 ・ 水路 ・ 大海で、皆なよく多くの汚れのあるものを洗うように、その法の水もまたこのように、よく人々の多くの煩悩の汚れを洗うのである。

「 煩悩 」 = 人々の身心を煩わし悩ませる種々の精神作用の総称。

○ 善男子 水性是一 江 ・ 河 ・ 井 ・ 池 ・ 渓 ・ 渠 ・ 大海 各各別異
○ 水雖倶洗 而井非池 池非江河 渓渠非海
○ 初 ・ 中 ・ 後説皆能洗除衆生煩悩 而初非中 而中非後
○ 初 ・ 中 ・ 後説 文辞雖一 而義各異
○ 義異 故衆生解異
○ 解異 故得法 ・ 得果 ・ 得道亦異

○ 善男子よ 水の性は是れ一なれども
○ 江 ・ 河 ・ 井 ・ 池 ・ 渓 ・ 渠 ・ 大海は 各各別異なり
○ 水は倶に洗うと雖も 井は池に非ず 池は江河に非ず 渓渠は海に非ず
○ 初 ・ 中 ・ 後の説は 皆な能く衆生の煩悩を洗除すれども
○ 初は中に非ず 而も中は後に非ず
○ 初 ・ 中 ・ 後の説は 文辞一なりと雖も 義は各おの異なる
○ 義は異なるが故に 衆生の解は異なる
○ 解は異なるが故に 得法 ・ 得果 ・ 得道も亦た異なる


善男子よ。 水の性質は一つであっても、入江 ・ 大きな川 ・ 井戸 ・ 池 ・ 谷川 ・ 水路 ・ 大海はそれぞれ別であり異なっている。 ( 中略 )
水は、ともに洗うといっても、井戸は池ではない。 池は入江や大きな川ではない。 谷川や水路は海ではない。 ( 中略 )
初期 ・ 中期 ・ 後期の説は、皆よく人々の煩悩を洗い除くけれども、初期の説は中期の説ではない、しかも中期の説は後期の説ではない。
初期 ・ 中期 ・ 後期の説は、文章の言葉は一つであるといっても、義はそれぞれ異なっている。 ( 中略 )
義は異なるがゆえに、人々の理解は異なっている。
理解は異なるがゆえに、獲得する法 ・ 獲得する結果 ・ 獲得する道もまた異なっている。


釈尊が四十二年間で説いてきたものは、「 いのち 」 のさまざまな側面です。
それは性質と欲望が違う一人ひとりに合わせて、教えを説いてきたからです。
それらの教えは一人ひとりの煩悩を洗い除く働きは同じですが、義がそれぞれ違います。
義がそれぞれ違うために、人々が獲得する道に差が生じてしまうのです。
しかもそれらの教えには、仏に成るために必要な真実は、まだ説かれていませんでした。
すべての人が仏の智恵を獲得できる仏乗は、まだ明らかにされていなかったのです。
釈尊は仏に成ることを願う多くの菩薩に対して、この無量義経で、
無量義は一つの法より生じていることを、その真実を学ぶことで仏に成れることを、
四十二年間の教えは、一人ひとりに合わせて説いた方便であることを、
四十二年間の教えの中には、仏に成るために必要な真実は説かれていないことを、初めて明かすのです。

無量義経の説法を聞いた多くの菩薩たちは、これらのことを理解していきます。

【 無量義経の十功徳品 第三 に 】

○ 爾時大荘厳菩薩摩訶薩復白仏言
○ 世尊 世尊説是微妙甚深無上大乗無量義経 真実甚深真実甚深
○ 若有衆生得聞是経 則為大利 所以者何 若能修行 必得疾成無上菩提
○ 其有衆生不得聞者 当知是等為失大利 過無量無辺不可思議阿僧祗劫
○ 終不得成無上菩提 所以者何 不知菩提大直道故 行於険逕 多留難故

○ 爾の時 大荘厳菩薩摩訶薩は復た仏に白して言さく
○ 世尊よ 世尊は是の微妙甚深無上大乗無量義経を説きたまう 真実甚深真実甚深なり
○ 若し衆生有って是の経を聞くことを得ば 則ち大利と為す
○ 所以は何ん 若し能く修行せば 必ず疾く無上菩提を成ずることを得ればなり
○ 其れ衆生有って聞くことを得ずば 当に知るべし 是れ等は為れ大利を失えり
○ 無量無辺不可思議阿僧祗劫を過ぐれども 終に無上菩提を成ずることを得ず
○ 所以は何ん 菩提の大直道を知らざるが故に 険逕を行くに 留難多きが故なり


その時、大荘厳菩薩摩訶薩はまた仏に申し上げた。
「 世尊よ。 世尊はこの微妙で甚だ深い、最高の大乗である無量義経を説かれました。
真実は甚だ深いです。 真実は甚だ深いです。 ( 中略 )
もしも人々がいてこの経を聞くならば、そこで大きな利益となります。
なぜならば、もしもよく修行すれば、必ず、すみやかに無上菩提を獲得できるからです。
人々がいて、この経を聞かないならば、まさに知らねばなりません。
これらの人々は大きな利益を失うのです。
量り知れない限りのない思い量ることができない阿僧祗劫を過ぎても、ついに無上菩提を獲得することができません。
なぜならば、菩提への大きな真っ直ぐな道を知らないためです。
険しい道を行くので、留難が多いためです 」 と。


「 阿僧祗 」 = 数えきれないほどの大きな数の単位。
「 留難 」   = 魔が働いて善事をとどめ、仏道修行を妨げること。

○ 爾時世尊告大荘厳菩薩摩訶薩言 善哉善哉 善男子 如是如是 如汝所説
○ 善男子 我説是経 甚深甚深 真実甚深 所以者何 令衆疾成無上菩提故
○ 一聞 能持一切法故 於諸衆生大利益故 行大直道無留難故

○ 爾の時 世尊は大荘厳菩薩摩訶薩に告げて言わく
○ 善き哉 善き哉 善男子よ 是の如し 是の如し 汝が説く所の如し
○ 善男子よ 我れは是の経を説くこと 甚深甚深 真実甚深なり
○ 所以は何ん 衆をして疾く無上菩提を成ぜしむるが故に
○ 一たび聞けば 能く一切の法を持つが故に
○ 諸の衆生に於いて 大いに利益するが故に 大直道を行じて留難無きが故なり


その時、世尊は大荘厳菩薩摩訶薩に告げて言われた。
「 よいことである、よいことである。
善男子よ、以上のとおりである、以上のとおりである。 汝が説くとおりである。
善男子よ、私がこの経を説くことは、甚だ深く、甚だ深く、真実は甚だ深いのである。
なぜならば、人々にすみやかに無上菩提を成しとげさせるからである。
一度聞けば、よく一切の法を持つことができるからである。
多くの人において、大いに利益するからである。
大きな真っ直ぐな道を修行して、留難がないからである 」 と。


ここで釈尊は、無量義経を理解できる人、つまり、方便の教えと真実の教えの区別ができる人には、多くの功徳があることを説きます。
さらに無量義についても譬えを挙げて説いています。

○ 善男子 第一是経能令菩薩未発心者 発菩提心
○ 無慈仁者 起於慈心 好殺戮者 起大悲心
○ 生嫉妬者 起随喜心 有愛著者 起能捨心

○ 善男子よ 第一に是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして 菩提心を発さしむ
○ 慈仁無き者には慈心を起こさしめ 殺戮を好む者には大悲の心を起こさしめ
○ 嫉妬を生ずる者には随喜の心を起こさしめ 愛著有る者には能く捨つる心を起こさしむ


「 善男子よ。 第一にこの経は、菩薩でいまだ発心していない者には菩提心を起こさせる。
慈仁のない者には慈しむ心を起こさせて、殺戮を好む者には大悲の心を起こさせて、嫉妬を生じる者には歓喜の心を起こさせて、愛著ある者には捨つる心を起こさせる 」。


「 菩提心 」 = 仏道修行をして、悟りを求めようとする心。
「 慈仁 」   = なさけ深いこと。
「 殺戮 」   = 多くの人をむごたらしく殺すこと。
「 大悲 」   = 苦しみから救い出す慈悲の心。

○ 諸慳貪者 起布施心 多憍慢者 起持戒心 瞋恚盛者 起忍辱心
○ 生懈怠者 起精進心 諸散乱者 起禅定心 多愚癡者 起智慧心

○ 諸の慳貪の者には布施の心を起こさしめ 憍慢多き者には持戒の心を起こさしめ
○ 瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起こさしめ 懈怠を生ずる者には精進の心を起こさしめ
○ 諸の散乱の者には禅定の心を起こさしめ 愚癡多き者には智慧の心を起こさしむ


「 多くの慳貪の者には布施の心を起こさせて、憍慢が多い者には持戒の心を起こさせて、瞋恚が盛んな者には忍辱の心を起こさせて、懈怠を生じる者には精進の心を起こさせて、多くの散乱の者には禅定の心を起こさせて、愚癡の多い者には智恵の心を起こさせる 」。

「 慳貪 」 = 物惜しみして欲深いこと。
「 布施 」 = 人に物を施しめぐむこと。
「 憍慢 」 = おごり高ぶること。
「 持戒 」 = いましめを堅く守ること。
「 瞋恚 」 = 自分の心にかなわないことに対し憎しみ憤ること。
「 忍辱 」 = 恥辱や迫害に耐え、心を安らかにすること。
「 懈怠 」 = 悪を断ち善を修めるのに全力を注いでいないこと。
「 禅定 」 = 心を一所に定め散乱せず、深く真理を思惟する境地に入ること。
「 智恵 」 = 物事の道理を正しく判断し、適切に処理する能力。

○ 未能度彼者 起度彼心 行十悪者 起十善心 楽有為者 志無為心
○ 有退心者 作不退心 為有漏者 起無漏心 多煩悩者 起除滅心

○ 未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起こさしめ
○ 十悪を行ずる者には十善の心を起こさしめ 有為を楽う者には無為の心を志しめ
○ 退心有る者には不退の心を作さしめ 有漏を為す者には無漏の心を起こさしめ
○ 煩悩多き者には除滅の心を起こさしむ


「 いまだ彼を度することができない者には、彼を度する心を起こさせて、十悪を行う者には十善の心を起こさせて、有為を願う者には無為の心を志させて、しりぞく心がある者にはしりぞかない心にさせて、有漏の者には無漏の心を起こさせて、煩悩が多い者には、煩悩を除き滅する心を起こさせる 」。

「 十悪 」 = 身の悪業に 殺生 ・ 偸盗 ・ 邪婬 があり、 口の悪業に 妄語 ・ 綺語 ・ 悪口 ・ 両舌 があり、 意の悪行に 貪欲 ・ 瞋恚 ・ 愚癡 がある。
「 十善 」 = 十悪を行わないこと。
「 有為 」 = 因縁によって仮に生じたもの。
「 無為 」 = 因縁によって仮に生じたものでない、生滅を離れた永遠のもの。
「 有漏 」 = 漏は、煩悩のこと。 煩悩があること。
「 無漏 」 = 煩悩がないこと。 煩悩をなくすこと。

○ 善男子 是経譬如従一種子生百千万 百千万中一一復生百千万数 如是展転乃至無量
○ 是経典者亦復如是
○ 従於一法生百千義 百千義中一一復生百千万数 如是展転乃至無量無辺之義
○ 是故此経名無量義

○ 善男子よ 是の経は譬えば一の種子従り百千万を生じ 百千万の中より一一に復た百千万数を生じ
○ 是の如く展転して乃ち無量に至るが如く 是の経典は亦復た是の如し
○ 一法従り百千の義を生じ 百千の義の中より一一に復た百千万数を生じ
○ 是の如く展転して乃ち無量無辺の義に至る 是の故に此の経を無量義と名づく


「 善男子よ。 この経は譬えれば、一つの種子より百千万を生じ、その百千万の中より一つひとつにまた百千万の数を生じ、このように巡って、そこで量り知れない数に至るように、この経典もまたこのようなものである。
一つの法より百千の義を生じ、百千の義の中より一つひとつにまた百千万の数を生じ、このように巡って、そこで量り知れない限りのない義に至る。
このゆえにこの経を無量義と名づけている 」。


無量義経は法華経が説かれる直前に説かれたもので、法華経の開経と位置づけられます。
多くの菩薩たちは、この無量義経で釈尊の真意を理解していきました。
多くの辟支仏 ・ 声聞たちは、この後の法華経で釈尊の真意を理解していきます。
この後の法華経で、「 いのちの本当の姿 」 と仏弟子たちの使命が明かされるのです。

中国の隋の時代に法華経を広く世間に示し、盛んにした天台大師 ( 智顗 )は、釈尊の五十年間の説法を、説法の順序に従って五つの時に分類しています。 ( 参考文献 「 教学小辞典 」 )

① 華厳時     二十一日間   華厳経
② 阿含時     十二年間     阿含経 など
③ 方等時     十六年間     阿弥陀経 ・ 大日経 ・ 金光明経 ・ 維摩経 など
④ 般若時     十四年間     摩訶般若経 など
⑤ 法華涅槃時  八年間      無量義経 ・ 法華経 ・ 涅槃経 など

方等時が八年間、般若時が二十二年間の説もあります。
大きな時の流れとしてはこのような順序になりますが、釈尊はその時々で、一人ひとりの理解に合わせて、順序を変えて法を説いていたことが分かっています。

① 人々の機根を量るために高い教えを試みに説いた期間。
② 人々を仏法に誘引するために小乗を説いた期間。
③ 小乗に執着する人々の性格を暴いて責め、大乗を説いた期間。
④ 一切皆空の教えを説き、人々の機根を淘汰した期間。
⑤ 方便の教えを捨て、すべての人が仏に成れる真実の教えを説いた期間。

「 機根 」    = 仏の教化をうける 「 いのち 」 の可能性、またはその状態のこと。
「 教化 」    = 人々を教え導いて、仏の道に入らせること。
「 一切皆空 」 = あらゆるものは空であり、固定的 ・ 実体的なものとして存在するのではないということ。 有に対する非有の意味がある。

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二千四百年前に説かれた 「 いのちの本当の姿 」。
しかし、ここで疑問を感じます。
釈尊は方便を説くことを決意して、実際に四十二年間は方便を説いてきました。
そしてその後の八年間で 「 いのちの本当の姿 」 を伝える法華経を説き終えます。
ではなぜ現在は、四十二年間の方便の教えが主流になっているのでしょうか。
その理由を明らかにします。
釈尊が生きた時代では紙などの記録手段が発達していなかったため、人々は仏の大切な教えを暗唱して、心にとどめていたようです。
仏の入滅後の数百年間に何度か仏典結集が行われ、人々が何世代にもわたり伝えてきた仏の大切な教えが、記録されました。
仏典結集と同時進行して、仏の教えがシルクロードを渡り、中国へ伝わります。
サンスクリット語から漢語への翻訳事業も、何度か行われました。
「 いのちの本当の姿 」 が正確に後世に伝わるためには、仏の真意を掴み取れる翻訳家の出現を待たなければなりません。
仏は最終的に何を伝えたかったのか。
仏典の翻訳も含めて、インドから中国 ・ 日本へと布教に関わったすべての人が、仏の真意を掴み取れていたとは限りません。
人々の理解に合わせて説かれた方便の教えは、簡単で広まるのも早いのですが、「 いのちの本当の姿 」 を伝える法華経は、理解するのが難しく広まるのも遅くなります。
なぜ、そういえるのでしょうか。

釈尊が五十年間で説いた教えは、八万法蔵といわれるように膨大なものです。
その八万法蔵の教えは大きく二つに分けられます。
悟りを得てから四十二年間の教えと、その後の八年間の教えです。
また、仏の教えには方向性があります。
人々から仏に向かう方向と、仏から人々に向かう方向の二つです。
四十二年間の教えは、人々の 「 いのち 」 を成長させるための教えです。
一人ひとりの実際の体験から生じる苦しみに対して、仏はその因縁を説き、苦しみを滅する教えを説き、悦びを与えながら 「 いのち 」 を成長させていきます。
成長によって新たな体験をし、そこから生じる苦しみに対してもすべて同じです。
これが人々から仏に向かう方向です。
では人々が体験していないことを理解させるには、どうすればよいでしょうか。
体験したこともなく、想像も及ばないことを、言葉で理解させるのは困難です。
しかし、伝える手段は言葉しかありません。
仏は 「 いのち 」 が成長してきた人々に、仏の最高の智恵と幸せな境涯をなんとか理解させようと、言葉を使い、多くの譬えを用いて教えを説いていきます。
八年間の教えは、人々に 「 いのちの本当の姿 」 を理解させるための教えです。
これが仏から人々に向かう方向です。
この方向は実際の体験がないために、理解するのが難しく、「 信じる心 」 を持って、仏の智恵の世界に入っていく以外にありません。
なぜなら、「 いのち 」 のことをすべて理解していない人々にとって、「 いのち 」 のことをすべて悟った仏の智恵や境涯は、妙であり不可思議そのものだからです。
四十二年間の教えとその後の八年間の教えは、まったく性質が異なります。
「 信じる心 」 を持てなかった人々にとっては、「 いのちの本当の姿 」 を理解させるための八年間の教えも、仏の教えの一つにしか過ぎないのでしょう。
慣れ親しんだ教えに対する執着を捨てて、「 信じる心 」 を持って仏の智恵の世界に入っていった時に、「 いのちの本当の姿 」 を理解することができます。
せっかく 「 いのち 」 が成長してきたのに、「 いのちの本当の姿 」 を理解できるかどうかは、この 「 信じる心 」 が持てるか持てないかの一点で決まるのです。

中国では隋の時代に天台大使 ( 智顗 ) が法華経を広めます。
日本では飛鳥時代に聖徳太子が、法華経による理想の国づくりを目指します。
その後、平安時代に伝教大使 ( 最澄 ) が、鎌倉時代に日蓮大聖人が法華経を広めます。
しかし法華経は信じること ・ 理解することが難しいために、主流にはなりません。
方便の教えに慣れ親しむと、執着心が求道心より大きくなり、「 いのちの本当の姿 」 を理解することができなくなります。
法華経に、執着心のせいで 「 いのちの本当の姿 」 を受け入れることができない弟子のことが説かれています。
舎利弗の請いにより、釈尊が真実を説き始める時にそれは起ります。

【 法華経の方便品 第二 に 】

○ 汝今諦聴 善思念之 吾当為汝分別解説

○ 汝は今諦らかに聴き 善く之れを思念せよ 吾れは当に汝が為めに分別し解説すべし


汝は今あきらかに聴いて、よくこれを心に思いなさい。
私はまさに汝のために区別して解説しよう。


○ 説此語時 会中有比丘 ・ 比丘尼 ・ 優婆塞 ・ 優婆夷五千人等 即従座起 礼仏而退
○ 所以者何 此輩罪根深重 及増上慢 未得謂得 未証謂証 有如此失 是以不住
○ 世尊黙然而不制止

○ 此の語を説きたまう時 会の中に比丘 ・ 比丘尼 ・ 優婆塞 ・ 優婆夷の五千人等有りて
○ 即ち座従り起ちて 仏を礼して退きぬ
○ 所以は何ん 此の輩は罪根深重に 及び増上慢にして 未だ得ざるを得たりと謂い
○ 未だ証せざるを証せりと謂えり
○ 此の如き失有り 是を以て住せず
○ 世尊は黙然として制止したまわず


この言葉を説かれた時、会座の中に比丘 ・ 比丘尼 ・ 優婆塞 ・ 優婆夷の五千人ほどがいて、座より立ち上がって、仏を礼拝して退出した。
なぜならば、この輩は罪の根が深く重いうえに、増上慢であり、いまだ得ていないものを得たと思い、いまだ証がないのに証があると思っている。
このような過失があって、これにより、ここにとどまらなかったのである。
世尊は沈黙のまま制止されなかった。


「 比丘 ・ 比丘尼 」   = 出家した男性信者 ・ 女性信者のこと。
「 優婆塞 ・ 優婆夷 」 = 在家の男性信者 ・ 女性信者のこと。
「 増上慢 」       = 最高の法および証を得ないのに、これを得たと思い高ぶること。

○ 我今此衆 無復枝葉 純有貞実
○ 舎利弗 如是増上慢人 退亦佳矣 汝今善聴 当為汝説

○ 我が今此の衆は 復た枝葉無く 純ら貞実のみ有り
○ 舎利弗よ 是の如き増上慢人は 退くも亦た佳し
○ 汝は今善く聴け 当に汝が為めに説くべし


今ここにいる人々は、枝や葉のような人はいなくなり、純粋で誠実なものだけになった。
舎利弗よ。 このような増上慢の人は、退出するのもよいだろう。
汝は今よく聴きなさい。 まさに汝のために説こう。


人はある程度理解すると、もうすべてを理解したと勝手に思い込んだりします。
慣れ親しんだものに執着し、新しいものを受け入れなかったりします。
慣れ親しんだものに対する執着心が、仏の真実の教えに対する不信を生み、現在でも方便の教えが主流となっているのです。

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四十二年間の説法は、人々からの質問に対して仏が答える形式でした。
無量義を説き終わった釈尊は、時が訪れたのを感じます。
そして人々からの質問がないのに、自ら仏の素晴らしい智恵や境涯を説き始めるのです。

【 法華経の方便品 第二 に 】

○ 諸仏智慧甚深無量 其智慧門難解難入 一切声聞 ・ 辟支仏所不能知
○ 所以者何 仏曽親近百千万億無数諸仏 尽行諸仏無量道法 勇猛精進 名称普聞
○ 成就甚深未曽有法 随宜所説意趣難解

○ 諸仏の智慧は甚深無量なり 其の智慧の門は難解難入なり
○ 一切の声聞 ・ 辟支仏の知ること能わざる所なり
○ 所以は何ん 仏は曽て百千万億無数の諸仏に親近し 尽く諸仏の無量の道法を行じ
○ 勇猛精進して 名称は普く聞こえ
○ 甚深未曽有の法を成就して 宜しきに随って説きたまう所の意趣は難解なり


多くの仏の智恵は甚だ深く、量ることができない。
その智恵の門は理解するのが難しく、入るのが解しい。
すべての声聞 ・ 辟支仏の知ることができないところである。
なぜならば、仏はかつて、百千万億の数えきれない多くの仏に親しみ近づき、ことごとく多くの仏の量り知れない仏道の修行を行い、勇ましく強く精進して、その名前は広く聞こえ、甚だ深くいまだかつてない法を成しとげているので、人々に適切に説かれているところの意図を理解するのは難しい。


○ 舎利弗 吾従成仏已来 種種因縁 種種譬喩 広演言教
○ 無数方便 引導衆生 令離諸著
○ 所以者何 如来方便知見波羅蜜 皆已具足
○ 舎利弗 如来知見 広大深遠 無量 ・ 無礙 ・ 力 ・ 無所畏 ・ 禅定 ・ 解脱 ・
○ 三昧 深入無際 成就一切未曽有法

○ 舎利弗よ 吾れは成仏して従り已来 種種の因縁 種種の譬喩もて 広く言教を演べ
○ 無数の方便もて衆生を引導して 諸の著を離れしむ
○ 所以は何ん 如来は方便と知見波羅蜜 皆な已に具足せり
○ 舎利弗よ 如来の知見は広大深遠にして 無量 ・ 無礙 ・ 力 ・ 無所畏 ・ 禅定 ・ 解脱 ・
○ 三昧に 深く入りて際無く 一切の未曽有の法を成就したまえり


舎利弗よ。 私は仏に成ってからこれまでのあいだに、さまざまな因縁、さまざまな譬えによって、広く教えを述べ、数えきれない方便によって人々を引導し、多くの執着から離れさせてきた。
なぜならば、如来は方便と知見波羅蜜を皆すでに具えているからである。
舎利弗よ。 如来の知見は、広大かつ深遠であり、無量 ・ 無礙 ・ 力 ・ 無所畏 ・ 禅定 ・ 解脱 ・ 三昧に、深く入って限りがなく、すべてのいまだかつてない法を成し遂げている。


「 因縁 」  = 結果を生ずべき内的な直接の原因を因といい、因を助けて結果に至らしめる外的な間接の原因を縁という。
たとえば、植物の種子は因で、日光や雨や土などは縁である。
この因と縁が和合して、植物の種子は芽を生ずる。
すべての人の 「 いのち 」 に具わる仏性が因で、仏の真実の教えを縁として、成仏という結果を生ずる。
「 引導 」   = 迷っている人々を導いて、仏の道に入らせること。
「 如来 」   = 仏の尊称。 真理の世界から人々を救うために、この世に来た人。
「 知見 」   = 真理を悟り知る智恵。 仏性。
「 波羅蜜 」 = 悟りの世界へ至るために、菩薩が行う修行のこと。
「 無量 」   = 楽を与える ・ 苦を抜くなど、四つの心がある。
「 無礙 」   = 仏の説法に遮るものがないことで、四つの無礙がある。
「 力 」    = 道理と非道理を知る力 ・ 業と報いの関係を知る力 ・ 人々の機根を知る力 ・ 人々の願いを知る力など、十の力がある。
「 無所畏 」 = 仏の説法に畏がないことで、四つの無畏がある。
「 解脱 」   = 束縛を解き、障りを脱すること。 この世の中を楽しんでいける境地。
「 三昧 」   = 心を一所に定めて動じないこと。

○ 舎利弗 如来能種種分別 巧説諸法 言辞柔軟 悦可衆心
○ 舎利弗 取要言之 無量無辺未曽有法 仏悉成就

○ 舎利弗よ 如来は能く種種に分別して 巧みに諸法を説き
○ 言辞は柔軟にして 衆の心を悦可せしめたまう
○ 舎利弗よ 要を取りて之れを言わば
○ 無量無辺の未曽有の法を 仏は悉く成就したまえり


舎利弗よ。 如来はよくさまざまに区別して、巧みに諸法を説き、言葉は柔らかく、人々の心を悦ばせ安らかにさせている。
舎利弗よ。 要点を取ってこれを言えば、量り知れない限りのないいまだかつてない法を、仏はことごとく成しとげている。


○ 止 舎利弗 不須復説 所以者何 仏所成就 第一希有難解之法
○ 唯仏与仏 乃能究尽諸法実相
○ 所謂諸法 如是相 ・ 如是性 ・ 如是体 ・ 如是力 ・ 如是作 ・ 如是因 ・ 如是縁 ・ 如是果 ・
○ 如是報 ・ 如是本末究竟等

○ 止みなん 舎利弗よ 復た説くを須いず
○ 所以は何ん 仏の成就したまえる所は 第一希有難解の法なり
○ 唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり
○ 所謂る諸法の 如是相 ・ 如是性 ・ 如是体 ・ 如是力 ・ 如是作 ・ 如是因 ・ 如是縁 ・ 如是果 ・
○ 如是報 ・ 如是本末究竟等なり


止めよう、舎利弗よ。 また説くことはない。
なぜならば、仏の成しとげたものは第一のもので希にしかなく、理解するのが難しい法である。
ただ仏と仏だけが、諸法の実相を究め尽くしている。
いわゆる諸法の、このような、相 ・ 性 ・ 体 ・ 力 ・ 作 ・ 因 ・ 縁 ・ 果 ・ 報 ・ 本末究竟等の十種類の側面のことをである。


「 実相 」      = 真実の姿。
「 相 」       = 外に表れた姿・形。
「 性 」       = 内にある性質 ・ 性分。
「 体 」       = 相と性をともに具えた本体。
「 力 」       = 内在している力 ・ 潜在能力。
「 作 」       = 内在している力が外界に現れた作用。
「 因 」       = 「 いのち 」 の中にある変化の直接的な原因。
「 縁 」       = 内 ・ 外にわたる変化の補助的な原因。
「 果 」       = 因と縁が和合して生じた直接的な結果。
「 報 」       = その結果が形に現れたもの。
「 本末究竟等 」 = 「 相 」 から 「 報 」 までが一貫して等しいこと。

諸法とは、この現実世界でさまざまな姿と取って現れているすべての現象です。
私たち一人ひとりの 「 いのち 」 も、大宇宙のすべての現象も、諸法に含まれます。
仏はその諸法の実相を究め尽くしています。
無量義は一つの法より生じていることを、
森羅万象の生滅 ・ 流転の仕組みを、究め尽くしているのです。
この文では、「 いのち 」 に具わる十種類の側面 ( 十如是 ) が明かされています。

その時、大衆の中の比丘 ・ 比丘尼 ・ 優婆塞 ・ 優婆夷はそれぞれ疑問を感じます。
舎利弗は四衆の心の疑いを知り、自らも理解できなかったので、釈尊に教えを請います。

○ 世尊 何因何縁 慇懃称歎諸仏第一方便 甚深微妙難解之法
○ 我自昔来 未曽従仏聞如是説 今者四衆 咸皆有疑 唯願世尊敷演斯事
○ 世尊何故慇懃称歎甚深微妙難解之法

○ 世尊よ 何の因 何の縁もて
○ 慇懃に諸仏の第一の方便 甚深微妙難解の法を称歎したまう
○ 我れは昔自り来 未だ曽て仏従り是の如き説を聞きたてまつらず
○ 今者 四衆は咸皆く疑い有り 唯だ願わくは世尊よ 斯の事を敷演したまえ
○ 世尊は何が故ぞ慇懃に甚深微妙難解の法を称歎したまう


世尊よ。 どのような原因、どのような縁によって、ていねいに多くの仏の第一の方便や、甚だ深く微妙な、理解するのが難しい法を、ほめはやすのですか。
私は昔から今までのあいだに、いまだかつて仏からこのような説を聞いたことがありません。
今、四衆はことごとく皆な疑いがあります。
どうかお願いします、世尊よ。 この事を広く説明してください。
世尊は何のために、ていねいに甚だ深く微妙な、理解するのが難しい法をほめはやすのですか。


しかし、釈尊は舎利弗を止めます。

○ 止 止 不須復説 若説是事 一切世間諸天及人 皆当驚疑

○ 止みなん 止みなん 復た説くを須いず
○ 若し是の事を説かば 一切世間の諸天 及び人は 皆な当に驚疑すべし


止めなさい、止めなさい。 また説くことはない。
もしもこのことを説けば、一切の世間の、多くの天および人は、皆きっと驚いて、疑うことだろう。


「 天 」 = 欲望が満たされ、喜びに浸っている状態の人。
「 人 」 = 穏やかで平静で、人間らしさを保っている状態の人。

多くの菩薩たちは、無量義経で釈尊の真意を理解していきました。
しかし、多くの辟支仏 ・ 声聞たちは、釈尊の真意をまだ理解していません。
真実と信じていた教えが方便の教えであったことを知れば、驚き疑うのも当然です。

○ 世尊 唯願説之 唯願説之
○ 所以者何 是会無数百千万億阿僧祗衆生
○ 曽見諸仏 諸根猛利 智慧明了 聞仏所説 則能敬信

○ 世尊よ 唯だ願わくは之れを説きたまえ 唯だ願わくは之れを説きたまえ
○ 所以は何ん 是の会の無数百千万億阿僧祗の衆生は
○ 曽て諸仏を見たてまつり 諸根は猛利 智慧は明了にして
○ 仏の説きたまえる所を聞きたてまつらば 則ち能く敬信せん


世尊よ。 お願いします、これを説いてください。 お願いします、これを説いてください。
なぜならば、この会座の数えきれない百千万億阿僧祗の人は、かつて多くの仏を拝見していて、多くの根は猛利で智恵は明らかであり、仏の説かれることをお聞きすれば、そこで敬い信じることができるからです。


釈尊は再び、舎利弗を止めます。

○ 若説是事 一切世間天 ・ 人 ・ 阿修羅 皆当驚疑 増上慢比丘 将墜於大坑

○ 若し是の事を説かば 一切世間の天 ・ 人 ・ 阿修羅は 皆な当に驚疑すべし
○ 増上慢の比丘は 将に大坑に墜つべし


もしもこのことを説けば、一切の世間の天 ・ 人 ・ 阿修羅は、皆きっと驚いて、疑うことだろう。
増上慢の比丘は、 今にも大きな穴に墜ちるだろう。


「 阿修羅 」 = 自分と他者を比較し、常に勝ろうとする気持ちが強い人。
自分が優れている時は他者を軽蔑し、他者が優れている時はそのことを認めず、強者と出会った時は卑屈になりへつらう人。

○ 世尊 唯願説之 唯願説之
○ 今此会中 如我等比 百千万億 世世已曽従仏受化
○ 如此人等 必能敬信 長夜安穏 多所饒益

○ 世尊よ 唯だ願わくは之れを説きたまえ 唯だ願わくは之れを説きたまえ
○ 今此の会の中の我が如き等比百千万億なるは 世世に已に曽て仏従り化を受けたり
○ 此の如き人等は 必ず能く敬信し 長夜安穏にして 饒益する所多からん


世尊よ。 どうかお願いします、これを説いてください。 どうかお願いします、これを説いてください。
今この会座の中の私のような百千万億の者は、世代ごとに、すでにかつて仏から導かれています。
このような人々は、必ず敬い信じることができ、長い年月にわたり人々を安らかにして、豊かで、ためになることが多いでしょう。


釈尊が出現する前のインドで発展していたバラモン教は、自然現象を神と捉える多神教で、祈りと難行苦行の修行によって業と輪廻から解脱し、涅槃に至ると説いていました。
釈尊は因果の理法を説かないバラモン哲学を打ち破るのですが、四十余年の方便の教えにより、当時の仏弟子たちは業や輪廻に対して、ある程度理解はしていたようです。

舎利弗の三度の請いに対し、釈尊は真実を説くことを告げます。

○ 汝已慇懃三請 豈得不説 汝今諦聴 善思念之 吾当為汝分別解説

○ 汝は已に慇懃に三たび請じつ 豈に説かざることを得んや
○ 汝は今諦らかに聴き 善く之れを思念せよ 吾れは当に汝が為めに分別し解説すべし


汝はすでにていねいに三回請うた。 どうして説かないことができるだろう。
汝は今あきらかに聴き、よくこれを心に思いなさい。
私はまさに汝のために区別して解説しよう。


この時、あの増上慢の四衆五千人が、教えを聞かずに退出するのです。
釈尊は説法を続けます。

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○ 如是妙法 諸仏如来時乃説之 如優曇鉢華 時一現耳
○ 舎利弗 汝等当信仏之所説 言不虚妄
○ 舎利弗 諸仏随宜説法 意趣難解
○ 所以者何 我以無数方便 種種因縁 譬喩言詞 演説諸法
○ 是法非思量分別之所能解 唯有諸仏乃能知之

○ 是の如き妙法は 諸仏如来は時に乃し之れを説きたまう
○ 優曇鉢華の時に一たび現ずるが如きのみ
○ 舎利弗よ 汝等は当に信ずべし 仏の説きたまう所 言は虚妄ならず
○ 舎利弗よ 諸仏は宜しきに随って法を説きたまい 意趣は難解なり
○ 所以は何ん 我れは無数の方便 種種の因縁 譬喩言詞を以て 諸法を演説す
○ 是の法は思量分別の能く解する所に非ず
○ 唯だ諸仏のみ有して 乃し能く之を知しめたり


このような妙法は、多くの仏は長い年月のあいだに、初めてこれを説くのである。
優曇鉢華が長い年月のあいだに、一度だけ現れるようなものである。
舎利弗よ。 汝らはまさに信じねばならない。 仏の説く言葉はいつわりではない。
舎利弗よ。 多くの仏は適切に法を説くので、その意図を理解するのは難しい。
なぜならば、私は数えきれない方便、さまざまな因縁、譬話によって諸法を説いてきた。
この法は思い量って区別して、よく理解できるものではない。
ただ多くの仏のみが、すなわちよくこれを知っているのである。


「 妙法 」    = 妙法蓮華経のこと。
「 優曇鉢華 」 = ヒマラヤ山麓に生息する闊葉樹で、仏典では三千年に一度咲き、仏に会いがたいことを譬える時に使われる。

○ 所以者何 諸仏世尊 唯以一大事因縁故 出現於世
○ 諸仏世尊欲令衆生開仏知見 使得清浄 故出現於世 欲示衆生仏知見 故出現於世
○ 欲令衆生悟仏知見 故出現於世 欲令衆生入仏知見道 故出現於世

○ 所以は何ん 諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に 世に出現したまう
○ 諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ 清浄なることを得しめんと欲するが故に 世に出現したまう
○ 衆生に仏知見を示さんと欲するが故に 世に出現したまう
○ 衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に 世に出現したまう
○ 衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に世に出現したまう


なぜならば、多くの仏はただ一つの大切な因縁のためだけに、この世に出現する。 ( 中略 )
多くの仏は人々に、仏の知見を開かせて、清浄であることを獲得させたいために、この世に出現する。
人々に、仏の知見を示したいために、この世に出現する。
人々に、仏の知見を悟らせたいために、この世に出現する。
人々に、仏の知見の道に入らせたいために、この世に出現する。


四十二年間、説かれることがなかった仏の目的が、ここで初めて明かされます。
仏がこの世に出現するただ一つの目的なのです。

○ 諸仏如来但教化菩薩 諸有所作 常為一事
○ 舎利弗 如来但以一仏乗故 為衆生説法 無有余乗若二若三

○ 諸仏如来は但だ菩薩を教化したまう 諸の作す所有るは 常に一事の為めなり
○ 舎利弗よ 如来は但だ一仏乗を以ての故に 衆生の為めに法を説きたまう
○ 余乗の若しは二 若しは三有ること無し


多くの仏はただ菩薩だけを教化する。
多くの行いは常にこのことのためである。 ( 中略 )
舎利弗よ。 如来はただ一つの仏乗のためだけに、人々のために法を説くのである。
それ以外の教えが、あるいは二つ、あるいは三つもあるのではない。


○ 舎利弗 劫濁乱時 衆生垢重 慳貪嫉妬
○ 成就諸不善根故 諸仏以方便力 於一仏乗分別説三

○ 舎利弗よ 劫の濁乱なる時 衆生は垢重く 慳貪嫉妬にして
○ 諸の不善根を成就するが故に 諸仏は方便力を以て
○ 一仏乗に於いて分別して三を説きたまう


舎利弗よ。 劫が濁り乱れている時、人々は汚れ重く、慳貪であり嫉妬して、多くの善くない根を成しとげているために、多くの仏は方便の力をもって、ただ一つの仏乗において、区別して三つの教えを説くのである。

○ 舎利弗当知 諸仏法如是 以万億方便 随宜而説法 其不習学者 不能暁了此
○ 汝等既已知 諸仏世之師 随宜方便事 無復諸疑惑 心生大歓喜 自知当作仏

○ 舎利弗よ当に知るべし 諸仏の法は是の如く 万億の方便を以て
○ 宜しきに随って法を説きたまう 其の習学せざる者は 此れを暁了すること能わじ
○ 汝等は既已に諸仏世の師の 随宜方便の事を知りぬれば 復た諸の疑惑無く
○ 心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ


舎利弗よ、まさに知らねばならない。
多くの仏の法はこのように、万億の方便をもって適切に法を説くのである。
それを学び習わない者は、これを理解し尽くすことはできない。
汝らはすでに多くの仏や世の中の指導者の、適切に方便を説くことを知っているので、また多くの疑惑を持つことなく、心に大歓喜を生じて、自分は必ず仏に成れるのだと知りなさい。


「 いのち 」 は次のような過程を経て成長し、仏に成ります。

迷いの世界を輪廻する六道 → 迷いの世界を脱した声聞 → 悟りの一部を覚知する辟支仏 → すべてを悟る仏に成ることを願う菩薩 → 仏

多くの仏はただ菩薩だけを教化します。
そのために次の三つの教え ( 三乗 ) を説きました。

① 六道の人々を声聞にするための教え。
② 声聞を辟支仏にするための教え。
③ 辟支仏を菩薩にするための教え。

人々の受け入れ能力に合わせてそれぞれの教えを理解させ、仏に成ることを願う菩薩にまで 「 いのち 」 を成長させていきます。
それは誰もが具える仏の知見を開き ・ 示し ・ 悟らせ ・ 入らせるための準備段階の教え、方便だったのです。
そのことを理解した時に、ただ一つの仏乗の道を歩み始めたことになり、心に大歓喜を生じて、自分は必ず仏に成れるのだと知りなさい、となるのです。

釈尊の説法を受け、舎利弗は躍り上がって喜びます。

【 法華経の譬喩品 第三 に 】

○ 爾時舎利弗踊躍歓喜 即起合掌 瞻仰尊顔 而白仏言
○ 今従世尊聞此法音 心懐踊躍 得未曽有

○ 爾の時 舎利弗は踊躍歓喜し 即ち起ちて合掌し 尊顔を瞻仰し 仏に白して言さく
○ 今 世尊従り此の法音を聞き 心に踊躍を懐き 未曽有なることを得たり


その時、 舎利弗は躍り上がって歓喜し、立ち上がって合掌し、釈尊の顔を仰ぎ見て仏に申し上げた。
「 今、世尊よりこの法を聞いて心に躍り上がる感じを懐き、いまだかつてなかったことを獲得しました 」 と。


○ 若我等待説所因成就阿耨多羅三藐三菩提者 必以大乗而得度脱
○ 然我等不解方便随宜所説 初聞仏法 遇便信受 思惟取証

○ 若し我れ等は 阿耨多羅三藐三菩提を成就する所因を説きたまうを待たば
○ 必ず大乗を以て度脱せらるることを得ん
○ 然るに我れ等は方便もて宜しきに随って説く所を解せず
○ 初め仏法を聞いて 遇ま便ち信受し 思惟して証を取れり


「 もしも私たちが阿耨多羅三藐三菩提を成しとげる原因を説かれるのを待っていたならば、必ず大乗によって度脱されていたでしょう。
それなのに私たちは、方便をもって適切に法が説かれていたことを理解できずに、初めに仏法を聞くと、すぐにそのまま信じて受け入れ、考え、悟りを取ってしまいました 」 と。


「 度脱 」 = 悟りの世界に渡って、障りを脱すること。

○ 今日乃知真是仏子 従仏口生 従法化生 得仏法分

○ 今日乃ち知んぬ 真に是れ仏子にして
○ 仏の口従り生じ 法従り化生して 仏法の分を得たり


「 今日初めて私たちも真に仏の子であり、仏の口より生まれ、法から生まれ出て、仏法の一部分を獲得したことを知りました 」 と。

舎利弗は、三乗は方便として説かれたもので、釈尊の真意はただ一つの仏乗にあることを理解します。
舎利弗が仏乗の道に入るので、釈尊は舎利弗に記別を与えます。

○ 舎利弗 汝於未来世過無量無辺不可思議劫 供養若干千万億仏 奉持正法
○ 具足菩薩所行之道 当得作仏

○ 舎利弗よ 汝は未来世に於いて 無量無辺不可思議劫を過ぎて 若干千万億の仏を供養し
○ 正法を奉持し 菩薩の行ずる所の道を具足し 当に作仏することを得べし


舎利弗よ。 汝は未来の世において、量り知れない限りのない思い量ることができない劫を過ぎて、そこばく千万億の仏を供養し、正しい法をささげ持ち、菩薩の修行を具えて、必ず仏に成ることであろう。

「 記別 」 = 将来、仏に成るという保証。

釈尊の真意を舎利弗は理解しましたが、他の人々はまだ理解していません。
そこで舎利弗は、他の人々も疑惑から離れられるように釈尊に説法を請います。
釈尊はその請いを受け、譬えを説きます。

○ 今当復以譬喩 更明此義 諸有智者 以譬喩得解

○ 今当に復た譬喩を以て 更に此の義を明かすべし
○ 諸の智有らん者は 譬喩を以て解することを得ん


今まさにまた譬えによって、さらにこの義を明らかにしよう。
多くの智恵のある者は、譬えをもって理解することができるからである。


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《 三車火宅の譬え 》

○ 舎利弗 若国邑聚落 有大長者 其年衰邁 財富無量 多有田宅及諸僮僕
○ 其家広大 唯有一門 堂閣朽故 梁棟傾危 周帀倶時 欻然火起 焚焼舎宅
○ 長者諸子 在此宅中

○ 舎利弗よ 国邑聚落に 大長者有るが若し
○ 其の年は衰邁して 財富無量にして 多くの田宅及び諸の僮僕有り
○ 其の家は広大にして 唯だ一門有り 堂閣は朽ち故り 梁棟は傾き危うし
○ 周帀して倶時に 欻然に火は起こって 舎宅を焚焼す
○ 長者の諸子 此の宅の中に在り


舎利弗よ。 国 ・ 村 ・ 聚落に大長者がいるとしよう。
年をとって衰えているが、財産や富は量り知れないほど多く、多くの田や屋敷、および、多くの使用人を持っている。
その屋敷は広大であるが、門はただ一つだけしかない。( 中略 )
その立派な建物は朽ちふるび、梁も棟も傾いて危険な状態である。
そんな時、周囲から同時に火が起こって、屋敷を焼かれてしまう。
長者の子供たちは、( 中略 ) この屋敷の中にいる。


○ 長者見是大火従四面起 即大驚怖 而作是念
○ 我雖能於此所焼之門 安穏得出 而諸子等於火宅内 楽著嬉戯 不覚不知 不驚不怖
○ 火来逼身 苦痛切己 心不厭患 無求出意

○ 長者は是の大火の四面従り起こるを見て 即ち大いに驚怖して 是の念を作さく
○ 我れは能く此の焼くる所の門於り 安穏に出ずることを得たりと雖も
○ 諸子等は火宅の内に於いて 嬉戯に楽著して 覚えず知らず 驚かず怖じず
○ 火来って身を逼め 苦痛己に切まれども 心に厭患せず 出でんと求むる意無しと


長者はこの大火が四方から起こるのを見て大いに驚き怖れ、この思いを持った。
「 私はこの焼かれている門から安全に出ることができたといっても、子供たちは焼かれている屋敷の中で楽しい遊びに執着していて、火事のことを覚らず、知らず、驚かず、怖れることをしない。
火が来て身に迫り、苦痛が自分に差し迫ってきているのに、心に苦しむことをいやに思う気持ちがなく、屋敷の外へ出ようと求める意思がない 」 と。


○ 舎利弗 是長者作是思惟 我身手有力 当以衣裓 若以几案 従舎出之
○ 復更思惟 是舎唯有一門 而復狭小 諸子幼稚 未有所識 恋著戯処 或当堕落
○ 為火所焼 我当為説怖畏之事 此舎已焼 宜時疾出 無令為火之所焼害

○ 舎利弗よ 是の長者は是の思惟を作さく
○ 我れは身手に力有り 当に衣裓を以て 若しは几案を以て 従舎り之れを出すべしと
○ 復た更に思惟すらく
○ 是の舎は唯だ一門有りて 而も復た狭小なり 諸子は幼稚にして 未だ識る所有らず
○ 戯処に恋著し 或は当に堕落して火の焼く所と為るべし
○ 我れは当に為めに怖畏の事を説くべし 此の舎は已に焼く
○ 宜しく時に疾く出でて 火の焼害する所と為らしむること無かるべしと


舎利弗よ。 この長者はこの考えを持った。
「 私には身にも腕にも力がある。 まさに花を盛るかごによって、もしくは机によって、屋敷から子供たちを連れ出そうか 」 と。
またさらに考えた。
「 この屋敷は門がただ一つだけあって、しかも狭くて小さい。
子供たちは幼稚であり、まだ何も分からず、遊びに執着している。
あるいはまさに落ち込んで、火で焼かれてしまうにちがいない。
私はまさに子供たちのために、怖ろしさを説いてやろう。
この家はすでに焼かれようとしている。
適切な時にすみやかに外に出て、火で焼かれることがないようにしよう 」 と。


○ 作是念已 如所思惟 具告諸子 汝等速出
○ 父雖憐愍 善言誘喩 而諸子等楽著嬉戯 不肯信受 不驚不畏 了無出心
○ 亦復不知何者是火 何者為舎 云何為失 但東西走戯 視父而已

○ 是の念を作し已って 思惟する所の如く 具に諸子に告ぐらく 汝等速かに出でよと
○ 父は憐愍して善言もて誘喩すと雖も
○ 諸子等は嬉戯に楽著し 肯えて信受せず 驚ず畏れず 了に出ずる心無し
○ 亦復た何者か是れ火 何者か為れ舎 云何なるをか失うと為すを知らず
○ 但だ東西に走り戯れて 父を視るのみ


この思いを持ち終わって、考えたことを、つぶさに子供たちに告げた。
「 汝ら、すみやかに屋敷から出なさい 」 と。
父はかわいそうに思って、善い言葉で喩え誘うけれども、子供たちは楽しい遊びに執着して、あえて父の言葉を信じず受け入れず、驚かず、怖れず、最後まで屋敷の外に出ようとする心がない。
また火事とは何なのか、屋敷とは何なのか、命を失うとはどういうことなのかを知らず、ただ東西に走り戯れて、父を見つめるだけである。


○ 爾時長者即作是念 此舎已為大火所焼 我及諸子若不時出 必為所焚
○ 我今当設方便 令諸子等得免斯害

○ 爾の時 長者は即ち是の念を作さく 此の舎は已に大火の焼く所と為る
○ 我れ及び諸子は 若し時に出でずば 必ず焚くと為らん
○ 我れは今当に方便を設けて 諸子等をして斯の害を免るることを得しむべしと


その時、 長者はすぐにこの思いを持った。
「 この屋敷はすでに大火に焼かれている。
私も子供たちも、もしも適切な時に外に出なければ、必ず焼かれることだろう。
私は今まさに方便を設けて、子供たちがこの害から免れることができるようにしなければならない 」 と。


○ 父知諸子 先心各有所好 種種珍玩奇異之物 情必楽著 而告之言
○ 汝等所可玩好 希有難得 汝若不取 後必憂悔 如此種種羊車 ・ 鹿車 ・ 牛車
○ 今在門外 可以遊戯 汝等於此火宅 宜速出来 随汝所欲 皆当与汝

○ 父は 諸子の先心に各おの好む所有る種種の珍玩奇異の物には
○ 情必ず楽著せんと知って 之れに告げて言わく
○ 汝等が玩好す可き所は 希有にして難得し 汝は若し取らずば 後に必ず憂悔せん
○ 此の如き種種の羊車 ・ 鹿車 ・ 牛車は 今門外に在り 以て遊戯す可し
○ 汝等は此の火宅於り 宜しく速かに出で来るべし 汝が欲する所に随って 皆な当に汝に与うべしと


父は、 前に子供たちがそれぞれ好んでいた、さまざまな珍しい玩具や奇異の物には、感情が必ずそれらに執着すると知って、子供たちに告げる。
「 汝らが玩具として好む物は、希にしかなく、得ることが難しい。
汝はもしも取らなければ、必ず後悔するだろう。
このような好む物である羊車 ・ 鹿車 ・ 牛車は、今門の外にあり、それで遊ぶことができる。
汝らはこの燃えている屋敷からすみやかに出てきなさい。
汝らが欲しい物をそれぞれ与えよう 」 と。


○ 爾時諸子聞父所説珍玩之物 適其願故 心各勇鋭 互相推排 競共馳走 争出火宅
○ 是時長者見諸子等安穏得出 皆於四衢道中 露地而坐 無復障礙 其心泰然
○ 歓喜踊躍 時諸子等各白父言 父 先所許玩好之具 羊車 ・ 鹿車 ・ 牛車 願時賜与

○ 爾の時 諸子は父の説く所の珍玩の物を聞くに 其の願に適えるが故に
○ 心は各おの勇鋭して 互相に推排し 競いて共に馳走し 争いて火宅を出ず
○ 是の時 長者は 諸子等の安穏に出ずることを得て 皆な四衢道の中の露地に於いて坐して
○ 復た障礙無く 其の心は泰然として 歓喜踊躍するを見る
○ 時に諸子等は 各おの父に白して言さく
○ 父よ 先に許す所の玩好の具の羊車 ・ 鹿車 ・ 牛車を 願わくは時に賜与したまえと


その時、 子供たちは父の説く珍しい玩具の物を聞いてその願いに適うがゆえに、心はそれぞれ勇み、お互いに押し開いて競ってともに駆け走り、争って燃えている屋敷から出た。
この時、 長者は子供たちを安全に外に出すことができて、皆が四方に通じる道の中の露地に坐って、また何の障害も無いのを見て、その心は落ち着いて動じず、歓喜して心が躍るのが分かった。
そこで子供たちはそれぞれ父に言った。
「 父よ、 先ほど約束した玩具である羊車 ・ 鹿車 ・ 牛車を、願わくは今与えてください 」 と。


○ 舎利弗 爾時長者各賜諸子等一大車 而作是念
○ 我財物無極 不応以下劣小車 与諸子等 今此幼童 皆是吾子 愛無偏党
○ 我有如是七宝大車 其数無量 応当等心各各与之 不宜差別

○ 舎利弗よ 爾の時 長者は各おの諸子に等一の大車を賜う 而も是の念を作さく
○ 我が財物は極まり無し 応に下劣の小車を以て諸子等に与うべからず
○ 今 此の幼童は 皆な是れ吾が子なり 愛するに偏党無し
○ 我れに是の如き七宝の大車有って 其の数は無量なり
○ 当に等心にして各各に之れを与うべし
○ 宜しく差別すべからず


舎利弗よ。 その時、長者はそれそれの子供たちに、第一級の大きな車を与えた。 ( 中略 )
しかもこの思いを持った。
「 私の財産には限りがない。
劣っている小さな車を子供たちに与えるべきではない。
今、この子供たちは、皆な私の子である。
愛するのに偏ることはない。
私にはこのような七つの宝で飾った大きな車があって、その数は量り知れない。
まさに心を等しくして、それぞれにこれを与えるべきである。
適当に差別してはいけない 」 と。


○ 是時諸子各乗大車 得未曽有 非本所望

○ 是の時 諸子の各おの大車に乗って 未曽有なることを得るは 本の望む所に非ず


この時、子供たちはそれぞれ大きな車に乗ってみて、いまだかつてなかった物を獲得するが、それはもともと望んでいた物ではなかった。

子供たちは想像すらできなかった素晴らしい物を、獲得することができたのです。

釈尊は、四十二年間の自分の振る舞いを、この譬えと比較します。

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